建築とは?

1 | 人間の生の問題でありながら、「もの」をあつかう世界

― 西沢さんが大学で建築学科を選んだのはどのような理由からですか?

西沢理系の中で、文化、芸術にまたがっているということで何となく建築を選びました。入学当初は建築に特に強い関心があったわけではありませんが、情報処理や機械工学などよりは、建築学科という響きに関心を持ったかな。

― 日本の大学では建築学科は、工学部にあることが多いですが、文化、芸術とも関連が深いと言われています。建築を学ぶ、 あるいは建築家になるには、やはり文化や芸術への興味、あるいは好奇心をもつことが重要でしょうか?

西沢文化や芸術はもちろんそうだし、工学や人類学、哲学、いろんなものへの関心があったほうがいいのではないかなと思います。日本では建築学科は工学部ですが、実際はもう少し全学的なところがあるのです。計算と論理だけでは、良い建築、良いまちづくりはできません。建築を志す場合、工学を超える興味が必要です。 建築という分野で何をやっているかというと、家を作ったり、街を作ったり、様々ですが、家づくりにしてもまちづくりにしても、 人間のための場所を作ることは、建築分野において大きなテーマの一つといえます。私たちの生き方、暮らしというものを振り返ってみると、私たちはみな家に住んで、通りや界隈に住んで、街に住んで、また地域に住んでいる。裸で一人で、荒野で生きるわけではなくて、人間は環境とともに、場所とともに生きています。そういう意味で建築における大きなテーマの一つに、人間が生きるための環境を作る、ということがあると思います。人間が生きるための基盤として「場所」というものを重視しているのです。 家も通りも住宅地も大都市も、建築学科で教えるものは全て、人間の生にダイレクトに関わるものです。だから、建築をやっているといずれ、人間の生を考えるようになります。例えば詩・文学も、人間の生について考える学問と言えるので、その意味では建築と共通性がありますし、他方で建築との違いもあります。建築の分野は「もの」を扱う世界です。建造物や街という「もの」をどう作るか、「もの」のあり方はどうあるべきか、というテーマが中心にあります。

― 建築を考える、つくるということは「人間の生」について考えること。では、それを実際に「もの」としての建築をつくる ことの面白さはどこにありますか。

西沢建築創造は「ものづくり」ですから、誰でもわかる面白さ、楽しさがあります。楽しいから、作る人間の個性、想像力がすごく出る。それと同時に、建築はいろんな人が関わって出来上がってゆくものだから、「皆で作る」という感覚があります。 いろんな人間が関わって、押し合いへし合い作ってゆくから、協力もあるし戦いもあるし、とにかく人間としての力が問われます。 設計の段階でも、意匠と構造、設備と環境、いろんな分野の人間が協働して働き、また地域住民、ユーザー、政治家、設計者、 様々な思いを持った人々がぶつかり合いながら、建築はできてゆく。人間力が必要です。建築を作ると、自分の良いところも悪いところも、自分の全てがさらけ出てしまう。建築は、人間の力が問われるものづくりの世界ですね。

2 | 建築の根本的なところに共同性がある

― 建築家は、建築をつくる過程でいろいろな可能性を考えながらも、最終的にはひとつの答えとしての建築をつくりますが、 そのプロセスはどれくらい大変なものでしょうか。

西沢建築設計は、人間の想像力の大きさ、構想力の大きさが問われる分野です。小さいことを考えていたら、小さいものになるし、大きなことを考えていたら、大きなものになる。しかし、建築は確かに独創のものなのですが、一人でつくるものじゃないのです。建築が竣工すると、僕のような設計の人間は「これは僕の建築だ」と、「これは僕が作った」と、まるで自分が創造主であるかのような言いかたをするわけですが、施工者も同じように「これは私が作った」と言う。お施主さんも「僕の建築 だ」「僕が作った」と言う。三者三様にこれは僕が作ったというのですが、それらはどれもその通りなのです。建築は、深く関わった人間が皆自分の建築だと言えるものです。建築の最も根本的な部分に、共同性や社会性があると思います。 建築は、設計者が創造して、施工者は図面を実現するだけ、というのではなくて、設計も施工も、どちらも創造的です。例えば豊島美術館の時は、これはシェル構造の、水滴のような形のコンクリートシェルの自由曲面の建物なのですが、この自由曲面 をどう作るかという時に、鹿島建設の豊田さんが、土で山を作ってそれをメス型にしてコンクリートを打つ「土型枠」のアイデアを出してきた。土の山は、土なのでどんな形でも自在に作れますから、自由曲面形状によく適した工法と言えるわけですね。僕はそれはすごく面白い工法だと思った。そこで僕が面白く感じたのは、建築創造の順序が逆転したような気がしたのです。土型枠という新工法がまずあって、その工法で作れる形を考えた結果、水滴の建築が出てきた、というような順序。建築のコンセプトをひっくり返す提案というのかな。施工はただの再現作業でなく、創造的なことなのです。そういうことは、意匠設計と構造 設計と環境設計の間でもよく起きます。あまりに本質的なアイデアがでた時には、建築全体のありようが変わってしまうということは、しばしばある。協働するって、単に分業とか作業分担ということだけではなく、創造的な交流が起きることがあって、本当に面白いと思います。

― 西沢さんは別の施工方法を考えていたのでしょうか?

西沢やはり普通のコンクリートの作り方で、ベニヤ型枠でやるものだと思っていました。型枠として土を使う人はまずいません。 土型枠に近いものでは、中世の時代に仏像を砂型で成型したりしましたが、近代建築以降はあまり類例はないと思います。

3 | 自分の「思い」というものを持ち、物語をつくること

―建築の根本には共同性があるということですが、これから建築の組み立て方を学んでいく学生は、どのような姿勢で臨めばよいのでしょうか。

西沢やっぱり、自分の「思い」というものをもつべきですね。「思い」と言っても、多少抽象的ですが。こだわりといえばいいか。人間は、物語を作りながら生きると思うのです。物語とともに生きる。例えば、僕はいずれ大統領になる、もっと大きな人間になりたい、というような大きな物語もあるだろうけど、もっと小さなことでも、朝起きて、今日は散髪に行こうとか、どんな献立にしようかなとか、ちょっとしたプロジェクトや課題を考える。人間は単に行動するのではなくて、必ずある思いを持って動く。物語を作りながら生きるのです。変な例ですが、コンピューターの麻雀ゲームは、やっているとすぐ飽きるのです。物語がないからつまらない。コンピューターは物語を作らないから、対戦相手として面白くないのです。しかし人間同士でやる麻雀は面白い。人間は物語をつくろうとするわけですね。よしこの方針で上がれるぞと、各々が作戦を立てて、ゴールを目指して、何事かを夢見て戦うのです。そんなふうに人間は物語とともに生きている。人間には物語が必要で、大小様々な夢を見つつ生きるのです。仕事だって、夜の献立を考えるのだって、子育てだって、大小の違いはあれみんなビジョンを組み立てながら、日々を生きている。建築は、そういう人間が作る物語の中でも、最大のものの一つです。

―自分の中で物語とは、どのようにつくっていくのでしょうか。

西沢物語というのは、「生き方」みたいなものです。住宅を設計する場合であれば、「こんな風に暮らしたい」とか、「こんな庭は素晴らしい」とか、「料理はこういう場所でこういう風にしたい」とか、「これからはこんな住まいがいい」とか、そういうことですね。最初は「こんな部屋がいいな」という小さいレベルだとしても、さらに考えてゆくと、家だけでなく自分の生活圏について色々考えるようになる。もちろん、あまり深く考えていなければ、どんな街だって住めるよって思うでしょうし、どんな住宅だって構わないでしょうから、興味がなければそれまでですが、しかし建築の設計をするのであれば、物語は重要です。それは別の言い方でいえば「思想」と呼んでもいいと思います。個人の物語というものが、他者にも届くような大きさを持つとき、それは社会的なものになる、それは建築になりうる。

―建築における物語とは、たとえばどのようなことでしょうか。

西沢色々ありますが、家を建てようと思うことは大きな物語です。新しい家族のために家を作ろう、こんな暮らしができる、というような。また、建築を作るプロセスそのものも、映画になるくらい物語的です。いろんな人間がいろんなことを画策して、ぶつかり合うから、いろんなドラマが起きる。
ミース・ファン・デル・ローエという近代建築の巨匠がいますが、彼が建築を作ると、それがオフィスビルであっても労働者住宅であっても、何か王様の建築になってしまうのですね。そこに住む人間、彼の建築の前や中を歩く全ての人間を、王様にさせてしまう建築です。人間の品性というか、誇りというか、そういうものを住まい手に要求する建築です。そういう意味でミースに対抗する建築家はル・コルビュジエで、コルビュジエはミースとは全く違うやり方で、人間はこう生きるべきだということを示しました。野蛮というか、まさに野人の建築で、ラ・トゥーレット修道院という建築がありますが、それは、ロ型の回廊建築のすぐ隣に、全然違う形の直方体をバンとくっつけるのです。足し算ですね。全体計画を考えて、全体がまとまるように各部の役割を考えていくというようなやり方では全然なくて、どんどん足していく。まるで彫刻家が、骨組みにどんどん肉付けして行くように、ばんばん足して行く。そのダイナミズムは、まるで全体なんかないと言わんばかりで、オープンエンドというのでしょうか、激しいというか野蛮なのです。コルビュジエほど、人間の生の激しさ、豊かさというものを、建築にした人は他にいないと思います。コルビュジエの建築を訪れるたびに、その野蛮さ、その快楽性を見るたびに、これは人間にふさわしい建築だと思います。彼の前や後の多くの建築家が、建築の中心に人間を置こうとしたし、人間中心主義をやろうとしたけれど、誰もコルビュジエのようにはやれなかったと思います。

4 | 建築ってこんなにカッコイイものーー影響を受けた建築家

―西沢さんが影響を受けた建築家といえば、ル・コルビュジエの他にどなたが挙げられますか。

西沢大学に入学して最初に感じたのは、建築は難しい、よくわからないということでした。歴史の授業で見たモダニズム建築なんか、白くて四角くて、全部同じに見えた(笑)。でもミースの建築を写真で見て、これはわかる、と思いました。独創性の塊で、全てオリジナルというか、建築全体はもちろん柱一本、ガラス一枚からもうミースなのです。何一つよそから借りてきていないような創造性があって、建築ってこんなにかっこいいものかと思いました。ミースを見て、建築っていうのは誰がつくっても同じってわけではないんだということを知りました。そのあと、街で見た安藤忠雄さんの建築にも、独創性を感じました。

―安藤さんのどの建築ですか。

西沢代官山のBIGIですね。小さく簡素なオフィスビルです。大きな吹き抜けのようなドラマチックな空間は一つもないんですが、玄関ドアがガラスになっていて、張り付いて中を見ると、普通に廊下があって階段があって、普通なのに素敵なわけですね。上等というのかな。安藤さんの建築を見て、これは高価なものだと思ったな。

―西沢さんは、妹島和世さんの事務所に入って、妹島さんからどのような影響を受けましたか?

西沢それはやはり、いろんなことを学びました。僕は他に勤めたことがないから、僕にとって師匠というと妹島さん一人です。他にも建築的ヒーローはいっぱいいるけれど、建築をどう組み立てるかということは、妹島さんからしか学んでいないのです。建築をどう組み立てるかを学ぶということは、考え方のストラクチャーを学ぶということです。物事をどう整理するか、どう抽象化するかというそのやり方を学ぶという意味ですね。また逆に、イメージとかアイデアっていう形のないものをどう物に置き換えるか、どう具体化するかというそのやり方を学ぶということでもあるから、建築の作り方を学ぶというのは、相当大きなことなのです。

5 | 建築は必ず場所がもっている問題にぶちあたる

―建築家は自分が知らない土地で建築をつくる場合、その土地の場所性をどのように捉えて設計しますか。

西沢場所は、時空間です。居場所ってよく言いますが、「居る」という言葉にはすでに時間概念が入っています。1泊だけして「この場所はいいな」って思うことと、10年そこに滞在して「いいな」って思う、その「いい」は質が違うのです。引っ越したばかりの時は、よそよそしく思えた家も、長く住むうちに、自分の居場所になってゆく。やっぱり人間は、時間をかけて、場所をつくっていく。時間をかけて場所を愛するのです。そういう意味では、場所を理解する時に、短時間の滞在だけで感じる理解もあるし、長く時間をかけて作り上げてゆく理解もある。どちらも重要で、またどちらの経験も、建築設計には重要です。
建築にとって一番重要なものの一つに「歴史」があります。それは、建築設計を専門とする人間だけでなく、建築を使う人間にとっても、発注する人間にとっても、歴史は一番重要なものの一つです。歴史への理解、歴史への愛が皆にあれば、街角に新しく作られた建築がどれだけ新しくても、町にとってどれだけ突飛に見えたとしても、それは決して突然出てきたのではない。新しく見えたとしても、その新しさは歴史的なものであって、そこに至る理由が必ずあり、過去との連続性が必ずあるのです。

―そのときに一番、建築家として心がけていること何でしょうか。つまり、どのような姿勢や思想で臨めば、西沢さんのつくる新しい建築が歴史の一部、あるいは街の一部になるのでしょうか?

西沢コルビュジエはかつて、歴史とは何かと聞かれて、「歴史とは新しいことを成すことだ」と言いました。歴史イコール新しさへの挑戦、という意味です。各時代の成果や努力が連続して歴史になると言いたいのだと思います。
たまにヨーロッパの街に行って羨ましく思うのは、ヨーロッパの街は、記念碑が集まって街になっていることです。道路や橋、建築など、街を構成する様々な要素が、その街の歴史上の出来事を記念して作られているのです。終戦記念のような大きなお祝い事もあれば、とある一族の成功を記念して建てられたお屋敷もあるし、詩人の生涯を記念した通りや公園など、記念の大小は様々ですが、要するに街というものは、その街に関わる歴史上の人々や出来事を記念して、記念碑が集まって、街になっているのです。記念碑は時空を超えて存在し続けるから、街を歩けば、歴史がわかる。どのような人々がそこに生きて、どのような出来事がかつてあったか、どんな歴史の上に自分がいるのか、街を歩けばわかるのです。そのような意味で、家やまちを作る建築家が歴史に関心がないというのは、まずいことです。歴史への深い理解と愛が、建築家には必要です。

6 | ものごとを素直に見る姿勢が大切

―建築を学び、考え、そして建築を設計していく上で、大切なことは何でしょうか?

西沢色々あると思うのですが、ひとつ思うのは愛というか、他者への興味、思いやりは大切だと思います。愛情があることが、まちづくりや建築作り、場所作りにとって、どれだけ大きいかと思います。建築はやはり、人間の技で、人間の思いが形になったものなので、機械的に冷たく作ると、必ず失敗すると思います。愛がわからない、論理しか分からないという人には、建築は向いていないのではないでしょうか。
建築を学ぶ時に、素直かどうかっていうのは大きいですね。学生や若手建築家を見ていて、伸びる人っていうのは根がまっすぐというか、素直ですね。素直に物を見て、話を聞いて、素直に感動するっていうのかな。
建築は、「もの」としての側面、道具としての側面が多くあります。道具と人間には、愛としか言えないような親しい関係が結ばれるのです。大工にとっての大工道具、料理人にとっての包丁、住まい手にとっての家、どれもそうですが、道具と人間には特別な関係が作られます。物を「使う」というのは、建築では「機能」という難しい言い方をしますが、これも言ってみれば、愛の別名のようなものです。

―「もの」やその使い方に慣習があるなら、それが人の自由な発想を阻むことにはなりませんか?

西沢発想を阻む不自由があるからこそ、自由があるのです。不自由と自由は本当に似ていると思います。建築家はやはり色々使えそうなもの、自由なものを目指すのですね。人間の自由というものを応援するような建築を作りたい。そのために、壁を立てるのです。壁を建てて仕切って、不自由というものを作る。廊下を作ったら、人はそれに従わざるを得ないし、壁を立てたら人はそこを迂回せねば向こうに行けないから、建築はいわば不自由の塊みたいなものです。しかし、壁で囲って部屋を作ったら、これで勉強できる、これで眠ることができる、ものをしまっておける、というように、いろんな自由が生まれる。これで何々ができるな、というように、人間の想像力や発想力を喚起する。創造的な不自由というものがあって、それが自由になってゆくのですね。

7 | 建築には時代を超える強さ、揺るぎなさ、タフさがある

―建築を学ぶにあたって、最初に大切なことは?

西沢横浜国大の建築学科は、全部で九講座ありますが、最初の第1講座が歴史の研究室です。まず歴史なのです。歴史が最初にあるというのは、重要な認識だと思います。建築は人類の歴史くらい古いもので、太古から現代に至るまで、いろいろな建築が作られてきました。それらをみれば、建築の多様さ、大きさが誰でもわかります。建築は、時代を超えて残り続ける強さ、タフさ、大きさというものがあります。建築の分野の中には、構造や意匠、都市計画、環境、色々あり、どれも全て重要で、学ぶ必要がありますが、やはりまずは歴史だと思います。いろんな建築を実際に見に行って、建築といっても色々あるのだなと思ってほしいですね。
学ぶべき最初のこととしてもう一つ思うのは、建築の面白さ、ものづくりの面白さです。アメリカの建築家のフランク・ゲーリーは、「どれだけ平凡な建築でも、建設中は創造的なものだ」と言いました。建設現場というものは、ものが生み出されてくる、まさに現在進行形の現場ですから、誰でもわかるようなおもしろさ、ダイナミズムがあります。建築設計事務所やメーカーの工場も、ものづくりの現場ですから、見学するとやはり面白いし、一言でメーカーとか建築家といっても、人によって考え方が全然違うので、ものづくりのやり方も全然違い、面白いですね。ものづくりの喜びは建築教育の中でも十分に伝えるべきことだと思うし、学ぶ方もそういう認識を持っていてほしいと思います。

―それは大学がもともと求めてきた「知」とは、どう重なりますか。

西沢学問は、終わりのない創造ですね。ゴールというのは多分ない。新しい発見が、次の問題を呼んで、さらに新しい発見につながってゆく。そういう意味では大学というところは大変創造的な場所で、面白いところです。大学の魅力は、社会で建築を考えるのとは全然違うアプローチで建築を考えることができる、ということです。僕は実際の社会で建築を設計して、建築を考えていますが、実社会で建築を考えるというのは、どこか目的的なものに向かってしまう傾向があります。ビジネス的といってもいいかもしれない。ところが大学は学問として建築を考えるので、ビジネス的でないし、目的的でないのです。もちろん設計事務所だって、決して経済効率だけでなく、純粋に面白い建築、ビジネスだけでない建築を考えますが、しかしそれでも、実用的な建築というのは大前提です。ところが歴史を見ると、実用的でない建築はいっぱいある。というよりも過去の時代の建築のほとんどは、現代社会においては使えないものばかりです。かつての時代のニーズに合わせて作られたものだから、今の時代において使いづらいのはいわば当然です。しかし使えないからといって、建築の価値が落ちるわけではない。建築の豊かさがなくなるわけではない。大学という場は、経済的か、実用的かどうか、の価値基準だけでなく、建築にはもっと多様な価値基準があるのだということを、ストレートに伝えてくれる。実用性だけに縛られずに、建築の豊かさと可能性を考え続けることができるのです。僕は、大学を卒業して社会に出て、久しぶりに大学に戻ってきた時に、そういうアカデミズムの度量の広さ、自由さというものが、一番新鮮に感じました。純粋に建築の魅力、可能性について考えることのできる自由の場、それが大学で、私たちの社会にこういう学問があることは本当に重要なことだと思います。